その輝きと、狂おしさに自然に涙が伝う内容でした。
それを言うとネタバレになるので言えないのですが、今作はとあるジャンルが好きな人にも激しくお薦めしたい作品となりました。
勿論、今まで通りあらゆる方に強くオススメしたいです。
スピリッツで読んでいる方も、単行本で通して読むとまた違った感想を抱くかもしれません。
90点。
以下はネタバレでの感想と、舞台となった場所への探訪、いわゆる聖地巡礼とも呼ばれる行為の記録です。
未読の方はご注意下さいませ。
11巻の感想を置いていたのは、書くタイミングを逃した感があったのもありますが、何より12巻とひとつなぎになっているからです。
11巻のハナの「風博士」があって、12巻の五十土さんの「瓶詰地獄」がある。
なればこそ、この二冊を併せて語ることに意味があるのです。
それは、丁度11巻の表紙・裏表紙にも表れています。
表は、ドレスを纏って華やかに凛とした表情で朗読を行うハナの姿。
12巻までのエピソードを読んでから改めて見ると、それは裏表紙でその様子を眺める五十土さんから羨望を交えて見えた光景なのかもしれません。
もし五十土さんが朗読を続けていたら辿り着いた姿。
しかし、叶わなかった姿。
それ故、影を落として隅からその姿を窺っている。
そんな風に読み取れる気がしました。
普通、自分からは自分の姿は見られませんが、そこはステップ6の名手である五十土さんですから。
ただ、ずっと読んできた方はご存知の通り、ハナがこうして舞台で輝けるようになるまでには、様々な紆余曲折がありました。
人と関わりあうことが苦手で、空想の世界に逃げて来たハナ。
舞台に立つなんてもっての外でした。
しかし、彼女もまた強い意志で自分を律し、伝えたいことを伝えるため、何より自分が自分であるためにステージに上がるようになったのです。
恐らく、朗読を通してそのことは五十土さんにも伝わったことでしょう。
単なる憧憬だけでなく、かつての自分の姿に重ねた複雑な想いもあったでしょう。
それ故に、自分に存在した可能性の一つであるハナの姿に、自分の持つ物全てを託したいと考えたとしても、それは自然であるように思えます。
「風博士」編だけ読んで、もしかしたらピンと来なかった方もいるかもしれません。
特に、連載で読んでいると細切れでシュールな部分が強く印象に残って、取り留めのない印象を受けるのも無理はないとも思います。
ただ、通して読めば、とりわけ12巻まで通して読めば、その意味する所がよく理解できるはずです。
ハナの「風博士」は、他でもない、「瓶詰地獄」を読む五十土さんに大いなる勇気を与える朗読でした。
幾度となく描かれる、無言の五十土さん。
これは、ライバルの姿を見据えているのかな、と最初に読んだ時には思っていました。
しかし、事実は違いました。
舞台に立つ最後の勇気を持てないでいた五十土さんは、ハナのこの「風博士」の朗読に大いなる力を貰っていたのです。
風博士と蛸博士の対立を描いたこの物語が暗喩するのは、現実と空想の鬩ぎ合いの中で生きる人の姿。
しかし、その対立項の中で煩悶する人間の姿を肯定し、人がそのありのままでいることを肯定するのが坂口安吾である、とハナは『堕落論』や『FARCEについて』なども併せて総合的に読み解きます。
だからこそ「風博士」は、自らという人間を曝け出さねば朗読することが適わない題材。
自分の中にない気持ちは朗読で表現できない。
逆に、朗読できているハナの中には、自分の中に表現すべき感情がある。
その原体験は恐れ。
幼少期から他人に嫌われることを恐れ、迷惑になることを恐れた自分。
ただ、そうして自分を消そうとしたとしても、決して消すことはできない。
両親を喪った時に、涙も流さず自分を殺すことで保とうとしていたハナは、そのことを伯母に確かに教わっていた。
何をしていても、自分は自分であり続ける。
いや、むしろ何をしたかによって自分自身が出来て行く。
傷つきたくなくても傷ついて。
傷つけたくなくても傷つけて。
傷つけられたくなくても傷つけられて。
そんな様々な矛盾も、ありのままに受け入れて生きる本当の強さ。
どんなに自分が嫌いになっても、
最後の最後は好きでいる。何もできない、どうしようもない自分を嫌いに成り果てていたハナ。
そんな彼女が至った、この気高く美しい覚悟。
喪い続けた人生で、これからまた失うことも含めて全て受け入れよう、という強い覚悟。
強く感銘を受けずにはいられません。
自らを曝け出すことに途轍もなく抵抗のあった五十土さんは、きなり先生の弟子でもあるこのハナの崇高な毅然とした姿を目の当たりにしたからこそ、自身の朗読に繋げられたのですね。
何とも美しい数奇な巡り合わせ、繋がりです。
そして、五十土さんが読むのは「瓶詰地獄」。
まさかの夢野久作作品に、大好きな私はテンションが上がりました。
このまま終わらないで、『ドグラ・マグラ』も扱って欲しいくらいです(長さ的に無茶……ですがチャカポコチャカポコを読むハナ達を見てみたい)。
一体全体どんな朗読になるのか……と思っていたら、想像の遥か斜め上方に行ってしまったのですが。
12巻の表紙だけを見れば、南の島でのバカンスのように、明るく陽気で優雅。
しかし、皆が笑顔でいるそこは極彩色の地獄。
否、どんな楽園も、そこにいる人の気持ち次第で地獄に変わってしまうものなのでしょう。
裏表紙を見れば、そこは確かに楽園であった時代があるのですから。
「瓶詰地獄」冒頭の朗読において、読み手が自分も聞き手となるステップ6には、更に二種類あることが語られます。
一つは玄人的な聞き手として、もう一つは素人のお客さんとして。
ハナは前者しかできないものの、五十土さんは「あなたもここに来られる」と、自らの朗読で導いて行きます。
「手元に本はないけど、心の中に本はある!」という描写だけでも、熱いものが込み上げて来てしまいます。
そしてその後、五十土さんがハナに合わせた読み方にあえて変えることによってシンクロし、ハナがお客さんの気持ちを解る所まで引き上げられる所も堪りません。
そして、そこから始まる「懺悔」も。
作品の内容に重ねられて、五十土さんの過去が語られていきます。
小さい頃から人付き合いの苦手だった五十土さんにとって、朗読の舞台は楽園。
それは五十土さんにとっての瓶詰の楽園。
普通の世界で生きることが辛いハナにとっても、共有できる楽園。
その楽園を肯定しつつも、人と向かい合うことを怖がるハナを「それができなきゃ大人じゃないし、それはとても大事なこと」諌める五十土さんの言葉が重いです。
言葉で人をやり過ごすだけでなく、覚悟を持って向き合うということの大切さ。
五十土さんから教わったそのことが、今巻最後の展開にも大きく影響を与えているのだと思います。
そして、五十土さんにとっての楽園は朗読の世界だけではありませんでした。
それを通じて知り合った折口先生ときなり先生との、三人で過ごす時間。
それこそが、五十土さんにとって真の楽園。
しかし、それはたった一つの想いによって地獄へと変質してしまうのでした。
その想いとは、きなり先生への恋慕。
この展開には、大きな驚きと共に感嘆と畏敬が混じりました。
「瓶詰地獄」の禁忌と苦悩を、そういう形で繋げてくるのか、と。
「瓶詰地獄」は、一読しただけだと様々な解釈が可能で、その議論も尽きぬ作品。
手紙の書かれた順番は。それぞれの手紙は誰が書いたものなのか。書かれていることは現実なのか幻覚なのか。
『花もて語れ』では、それらをどう解釈するか、という所も見所の一つでした。
が、今回は「瓶詰地獄」という作品や夢野久作先生に関しての斬新な知見などはありませんでした。
一通目の手紙を書いている描写も兄であることが自明の物として描かれていましたし、青空から夕空になりまた青空へと変わったシーンへの特別な言及もありませんでした。
このエピソードでは、作品の掘り下げではなく、作品を通じた五十土さんの掘り下げに焦点が当てられておりました。
今までは、作品の解釈の方が前に立って来ていて、そこに付随するキャラクターの想いという形がメインでしたので、解釈し甲斐のある「瓶詰地獄」でもそうなるかと思いきや……
この型破りもクライマックスならではですね。
五十土さんの、きなり先生との出会い。
そこで、同じく本が好きで引っ込み思案で純粋無垢なきなり先生に、言葉を絶して魂から惹かれたこと。
しかし、きなり先生は折口先生に惹かれており、本の貸し借りをしては感想文を付けているなどしていたのでした。
そこでの、彼女の叶わぬ想いへの苦悩はいかばかりだったか。
私は百合物も大好きですが、『花もて語れ』が始まった時はそんな要素が出て来るとは微塵も思っていませんでした。
そして、ハナと満里子さんが同棲を始めた時も驚きましたが、その比でない位に濃厚なこんな展開が待ち受けているとは。
人間が持つ最も純粋で美しい想いが、どうして対象が違うだけで禁忌とされてしまうのか。
なぜその美しい筈の想いは最も醜い想いと一繋がりになっており、忌むべき状況を生みだしてしまうのか。
この世に正解などある訳もなく、自分が死んでしまえば皆幸せになれるのに、なれたのに、と深く思い悩む五十土さん。
この物語が、最高純度の百合物語として立ち現れたその瞬間、大いなる感動と戦慄が同居していました。
「瓶詰地獄」は、普通に読めば兄と妹の近親相姦の禁忌です。
しかし、アヤコを洗礼名とし、二人は兄弟であるとする説もあります。
五十土さん自身は「同性愛は近親相姦よりは」と言ってもいますが、もしかしたらそういう含意もあったのかもしれません。
折口先生やきなり先生は、五十土さんのその想いに全く気付いていなかったように描かれます。
あれだけの時間を過ごした二人であれば、少しくらいの可能性は考慮しても良かったのでは、とも思います。
ただ、それは逆に五十土さんがそれだけ二人の前でその想いを知られることのないよう、強く強く秘めて隠して押し殺していたのだろうな、と。
「想いを伝える」ことは一つのこの作品のテーマとなっていますが、伝えてもどうしようもない、相手を傷付けるだけの想いを抱いてしまった場合はどうすれば良いのか。
そこに絶対の答はありませんが、少なくともきなり先生はそんな五十土さんの真意を理解しても、拒絶することはありませんでした。
朗読後のシーンで、涙を流して「そこを通して」と立ち上がる姿、イっちゃんなら遠い方の駅に行くと確信してそこで待ち続ける姿、名前を呼び掛けられた瞬間振り返る前に涙を流す姿、友達に対する自分の愛を普段にはない激情で語る姿、そして全てを許して受け入れる姿……
そのどれもが、重い一撃一撃として胸を打って来て嗚咽が止まりませんでした。
三人で生きて来た時間だけが楽園で、後は閉塞した瓶の中の地獄のように孤独の中で生きて来て、これからもそうする予定であったろう五十土さんは、懺悔の朗読を行うというたった一つ振り絞った勇気によって、許される機会を得ることとなりました。
たった少しの時間、ほんの僅かな言葉だけで、人は元の立ち位置を取り戻せることもある。
けれど、それを様々な理由から怠ってしまう生き物でもある。
最初、人外のラスボスのように見えた五十土さんは、終わってみればあまりに人間的な存在でした。
恐れを振り払って一握りの勇気で懺悔を果たした五十土さんに訪れた、瓶詰の外の新たなる楽園の到来を心から祝福したいです。
一方で、その五十土さんを勇気付け、逆に教わりもしたハナも、それまでではしなかったであろう行動に及びます。
折口先生を呼び止めて、喫茶店に誘う。
その事だけでも、それまでのハナではなかなか出来なかったろうな、と思います。
しかし、肝心なのはそこでハナが口にした言葉。
「どうして藤色先生をほったらかしにしてたんですか!?」
という、激しい口調での問い詰め。
それは、単なる糾弾ではなく、自身の初恋の相手への決別でもあります。
ハナの伝えたい想いもまた、ただ伝えることに躊躇いを生むもの。
きなり先生は五十土さんを受け入れましたが、折口先生はハナのその想いを受け入れることは恐らくないように思えます。
「きっと伝わる。伝えたい気持ちがあれば」と語るハナの気持ちは伝わらない。
伝えないために語る言葉も、ある。
そうして、潔く身を引くハナ。
あまりに悲しいですが、それもまた現実です。
したいようにするのではなく、自分がするべきだと思うようにしたハナ。
それは、きっと後悔を生まない選択でしょう。
そして、その感情も涙も、全てはまた人生における新たな経験となり、血肉となります。
しかしながら、世の中綺麗事だけでもありません。
初めて好きになった人を諦めねばならない。
痛いでしょう。苦しいでしょう。辛いでしょう。涙が止まらないでしょう。
読んでいる私も止まりませんでしたもの。
ですが、その想いを宿したからこそできるハナの朗読が、この先多くの人の心を揺さぶって行くことでしょう。
最後の、子供の頃と同じく別れを暗示させる「ありがとうございました」のシーン。
ただ、大きな違いは、泣きじゃくるのみだった子供の頃に対して、大人になったハナは最後は笑顔でいたこと。
それは正しく、ハナの成長の証その物であるように感じられます。
この一連の流れの中から滲み出る数多の想い、そこには人の持ち得る美しさの神髄を感じます。
折口先生を始め、多くの人から受け取ったもの、自らの内に生じたもの、全てを栄養として自分の中に咲いた花をもって、語っていく――
その、ハナの最後の朗読を、今は毎週敬虔な気持ちで見守っています。
こんなに深く感じ入り、心を揺さぶられる作品は私のマンガ人生の中でも貴重な体験です。
あと4話で終わってしまう『花もて語れ』。
あまりにも名残惜しいのですが……
最後まで、込められた熱い情感を一滴残らず堪能したいと思います。